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水彩画紀行  スペイン巡礼路 ポルトガル 上海、蘇州   カスピ海沿岸からアンデスの国々まで

水彩画紀行 スペイン巡礼路 ポルトガル 上海、蘇州   カスピ海沿岸からアンデスの国々まで

シルクロードの悲劇

歴史が人々に与えた過酷さ。

題してシルクロードの悲劇について語ります。

8日から滞在するアゼルバイジャンのカスピ海を隔てた東の地域が

中央アジアといわれる東洋と西洋が接するシルクロードの交易路。

西はカスピ海、東は中国の辺境の国、新疆に挟まれ、

北は天山山脈、南は紛争が絶えないアフガニスタンに接する。

シルクロードを旅する隊商が天山山脈を通過するころは

まさしく山賊が跋扈する命がけの旅だったと言う。

チンギス・ハンによって安全なシルクロードの交易が可能となったが、

そのために殺された沿線の都市の全住民は500万人に上ると言う。

この地には、まず紀元前800年ごろ、中央アジアに最初の騎馬民族国家が生まれた。

イラン、トルコにまたがる狩猟と牧畜のサカ王朝。

その子孫が今のキルギスタン。

紀元前後の時代、数百年ごとに、さまざまな民族がやってきては

殺戮し都市を奪っては滅んでいった。

サカ王朝もキュロス王率いるペルシャ帝国に滅紀元前550年に滅ぼされる。

そのペルシャ帝国も紀元前329年には追い詰められて滅び行く。

滅ぼしたのは、ギリシャから来た若くりりしい青年王。

その寛容さによって東西文化は交流を深め芳醇な花を咲かせた。

青年の名はアレクサンダー大王。

自ら先頭に立って戦いに参加。

いくたびも矢傷を受けたる勇猛果敢な王。

無理がたたって、若くしてアレクサンダーは死亡。

その後、この地は、頑丈な身体と大きな顔を特徴とする遊牧民族に支配される。

それがモンゴルの祖先フン族。

現在のカザフ人にそっくりな風貌でもある。

フン族は、5世紀にはローマにまで進軍。

その跡の地に住み着いたのが、中国に万里の長城を築かせたチュルクと言う蛮族。

アルタイ山脈に住んでいた初期のトルコ民族だった。

しかし預言者モハメッドの死後まもなく、ここに新たなアラブの遊牧民族が侵入。

拝火教寺院を破壊し、5万人もの民族が移り住んだ。

このイスラム国家は思想、哲学、芸術、科学の開花をもたらした。

しかし、この継承王朝も彼らの奴隷出身のトルコ将校によって滅亡。

トルコ民族はやがてセルジュークトルコとして200年君臨する。

しかし判断を誤ってモンゴルと交易した450人のモスレム商人を殺害。

チンギス・ハンの激しい怒りを買うこととなる。

地平線のかなたから現れたハンの大軍は、やがて首都ブハラを攻撃。

3万人を殺害し、次々と都市を殺戮し、焼き尽くした。

そしてハンガリーまで進軍した。ハンガリーはフン族の人々の意。

このチンギス・ハンによって安全なシルクロードの交易が可能となったが、

前述したように、そのために殺された沿線の都市の全住民は500万人と言う。

ハンの死後、骨肉の争いと化した一族の攻防が続く。

その頃、サマルカンドの近郊の下級トルコ民のとして生まれた無法者がいた。

都市を攻撃し殺戮し、財宝・婦女子を略奪。

それが男の冥利と宣言する非道な王。

刃向かった捕虜数千人を生きたまま土と石で塗り固めて塔を作ったり。

1日待って降伏ならよし、2日目なら男は処刑、

3日目なら全員皆殺しと言う過酷な要求で都市を恐れさせた。

その名はチムール。チムール帝国の王。

やがてそのチムール帝国もトルコとモンゴルの混血のウズベク人に

激戦の末打ち負かされるが、

ウズベクの王もまた再興したペルシャによって殺害される。

1552年、ロシアのイワン雷帝は都市カザンをタタール人から奪回。

全住民を殺戮した。

ロシア人は中央アジアを見下していた。

ドストエフスキーですら、

「主人としてアジアを近代化するために行くのが我々の任務だ。」

と語ったように。

優秀な民族と自負するロシア人は、これ以降さまざまな形で中央アジアへの侵略を続けていく。

まず、退役将校からなる多くの探検家がロシアから中央アジアへと向かう。

その報告をもとに軍隊が進撃した。

1870年ごろ、ロシアは中央アジアの草原をすべて自らのものにし、

農奴や反体制分子、冒険好きな兵士が移り住んでいった。

ロシアの農奴解放で350万人のロシア人が中央アジアに移住、綿花栽培は始めた。

遊牧民は山地に追いやられ反乱は鎮圧され、多くが殺害される。

ソ連邦の生産量の87%を占める中央アジアの無計画な綿花栽培は、

その後の飢饉を生み、自然のバランスを壊す。

大規模な灌漑がアラル海を死の海として深刻な環境破壊を生んだ。

1917年、ロシアに革命が起こり、帝政が崩壊。

レーニンは民族自決を約束。

中央アジアの国々は希望をもって赤軍として戦ったが、

その後でレーニン自身に裏切られる。

タタール人の校長の息子ガリエフはやがてモスレム社会主義委員会の指導的メンバー。

当然のこととして、モスレム共産党のロシアからの独立と各民族国家の独立を要求。

しかし、スターリンは逮捕し処刑。

中央アジアの何十人もの人望のあった部族指導者が消えた。

中央アジアの悲劇がひたたび始まった。

共通言語だったアラビア語は廃止されてロシア語に変えられた。

26000のモスクは400にまで破壊。

数万人の中央アジアの知識人たちがシベリアに追放された。

集団化に反対する農民とともに家畜の半分が殺された。

1928年から始まった遊牧民の強制集団化。

それに対する抵抗などにより100万人が死亡。

1920年から1945年までに中央アジアの人口の1/4が戦争か粛清で死亡した。

農民が殺されて土地が耕作されずに放置される。

1932年から始まった2年間の飢饉で推定700万人が死亡。

うち200万人が中央アジア人だったと言われている。

シベリアや奥地の開拓には、多くの現地人を利用して移住させるというパターンが繰り返された。

日本の捕虜がシベリア奥地の発電所開発に戦後も利用されたのも、同じ発想だった。

1985年にゴルバチョフが最高権力の座に就いた。

その翌年までに中央アジア5カ国の書記長の長期在任が死亡か解任。

腐敗の20年が終わりを告げた。

しかし、後任に地元出身者でなくてロシア人をつけたゴルバチョフ。

その無神経さが多くの暴動と殺戮を引き起こす。

スターリンが線引きした民族を無視した国境線。

負の呪いのように民族紛争を呼び現在に至っている。

この中央アジアで空しく本意ならずに死んでいった人々の数は、

目に見える星の数よりはるかに多い。

しかも、人々は殺戮や飢饉などで苦しみの末に死んでいった。

四方の大国に囲まれ、陸続きで無防備な草原の民の宿命。

と言うより、非道なひとにぎりの人間の邪悪な意図によるものだった。

チンギス・ハン、チムール、イワン雷帝、スターリン・・・。

この地は、血であがなった歴史の重みが今も彼らの風貌に残っている。


   より詳しく知りたい方は、パキスタンのジャーナリスト   

   アハメド・ラシッドが書いた名著
   
   「よみがえるシルクロード国家」

   などを、お勧めします。



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